守破離::1Q59

幸福とはココロの状態にある

世界で一番美しい詩

河原において手持ち無沙汰のときに平らな石を拾って
水面スレスレに横投げする水切り。石切りとも呼ぶ。

川面を何回ジャンプするか競う。

といっても一人でやることが多いからピッチングして
あそぶだけなのだが、やりはじめると自分が納得するか
疲れるまで延々と繰り返す。
大切なのは石の選択。
ちょういいサイズの石はなかなか見つけられないから
河原に散らばる小石を懸命にさがす。

ナイスピッチングが決まったり飽きたりすればエンド。

調子よいときは運が向いてきてるように感じる。
運勢を占ってるつもりはなくても好結果だと気分がよろしい。

嵐山にかかる渡月橋

材木製の橋はとても珍しく気持ちがほっこり和みます。
高貴なお方を乗せた牛車が往来していても違和感なし。
コレコレ。これが京都なんだなあ。

山奥などの吊り橋はたいてい頑丈な金属ワイヤーだから
ひとの重さで揺れてスリルあるが気分はいまひとつ。

渡月橋をバックに桂川で水切り。

拾える石がすくないから持参した石を投げてみる。
京都まで来た甲斐があるなあ。
なぜか観光客はまばらで人目を気にする必要はない。

いい歳した大人なのにこんなことしてもう。
上流の亀山から保津峡舟下りをしたときは河原の石のうえに
カメが日向ぼっこしてた。亀がいれば石をぶつけるのだが
亀が休めるような場所ではない。

悪気があって亀をいじめるのではなくておふざけ。
なんていいつつも実際に亀がいればそんなことは
決してやりません。動物愛護の精神に反する。

「女の腕では遠くに飛ばない」
「こんなのどこが楽しいの」
「水辺ばかりウロチョロ」
「河童の末裔なんじゃないの」

そういわれればとにかく水辺に引き寄せられる。
水難の相まであるらしくてこれまで川に三回ほど落っこちた。
いずれも助かったのは奇跡に近い。

橋からドボンと真っ逆さまに落ちたことまである。

水中から見上げる橋の裏はキラキラ日光が反射して
えもいわれぬ美しさだった。
同級生の母親に救ってもらわなればオダブツして土左衛門
こうやって悠長に水切りできなかった。
ああ。なんていう幸運の持ち主。

無信仰だから特定の宗教に加味する者ではないが、
神仏の加護かもしれない。
ありがたや。感謝しても感謝しきれぬ。

河童ならば話のネタに好都合。
現実はどうかいえば、そうはイカのなんとやら。
昔は今と環境が全然ことなるから野生動物をカッパと
見間違える現象はごく普通に起きたと考えられる。

視力が衰えたりすれば、対象をはっきり捉えるのは困難。
それに名前のわからない動物なんてカッパとして処理
しようがノープロブレム。異論をはさむなんて野暮。

釣りの最中はじっとしてるからイタチには気づかれなかった。
行ったり来たりしてる。動物園の動物がオリのなかで
運動不足を解消してるみたいだな。習性なんだろう。

一級河川の堤防ではイタチが巣穴を掘るらしくて
ときどき管理者が修復するという。イタチにしてみれば、迷惑どころか
死活問題。なかに潜んでるのに穴を埋められたら生き埋め。

あの手の野生動物は小心だから人前にはめったに姿を
あらわさない。遭遇できたらラッキー。
水切りとおなじくなにかの吉兆だと思い込む。

動物園のタヌキコーナーで母曰く。

「狸って臭いんだよねえ」
無口な母がつぶいやた。
口数が少ないひとの言動は脳裏にこびりつく。
いまにしておもえば、狸が臭いのかどうか。
オリに収納されていればいくら掃除しても臭いのは当たり前。

動物園そのものはどこも臭い。
タヌキだけ特別臭かったかどうか。

「なにボ〜っとしてるの」
「ねえ。カッパさん」
「そろそろ引き上げようよ」

貸し自転車でツーリングするんだったな。
嵯峨野大覚寺をめざしてゴーゴー。

なんともさえないママチャリ。ペダルをこぐ度に
ギコギコ音がする。手入れ不行き届き。油さしてない。
それでも徒歩と比べれば断然ラク。

竹林のなかには小道に沿って細竹を束ねた垣根。
嵯峨野ランドマークのひとつとして有名。
混雑してなければいうことないがなあ。

「風のせいで葉がこすれザワザワしてる」
「孟宗竹の群れが仲良く会話」
「コンって竿本体がねじれる音」
「普段は目につかない」
「二本で千円。二十年前のお値段です」
「竿竹売りのスピーカーぐらい」

なにもかもプラスチックにとって代わった。
物干し竿や釣竿だけでなくて竹細工はザルとか
木では補えない道具の材料として活躍してた。

自然素材なので環境に優しいが、いかんせん大量生産に不向き。
いちいち職人が手作りしなくちゃいけない。
鉄器を扱う鍛冶屋が消滅したようにザル屋まで消滅。

「色んな竹製品があるのね」
「ここでしか売ってないものはえ〜と」
「家に持って行くと意外に使えないこと多いから」
「実用品はパス」
「孫の手なんてまだあるんだ」
「命名したひとをホメたい」

大覚寺に面した大沢池は月の名所。
嵯峨天皇あたりが船を浮かべてお月見したんだろうか。
京都は海がない分、水の使い方が絶妙。

小林秀雄の弟子筋にあたる韋駄天のお正の異名をとった
白洲正子さんは大沢池をよく訪れたという。

骨董に造詣がふかくて茅葺き農家を改装した自宅には
ネガネにかなった逸品ばかり並んでいた。
武相荘」ぶあいそうっていう名で旦那の白洲次郎さんと
暮らしていたままの状態で公開保存されている。

物へ執着はすさまじく「本物」とはなにかを追っかけた。
姿かたちのフォルムへこだわり。
年季のはいったものへの審美眼は骨董マニアの特徴。
足を踏み入れたら最後。とりこになって底なし沼。

地元の材料で地元のひとが丁寧に作成して
生産者の顔が想像できるようなものが本物でしょう。
本物に出会う喜びを観光という。

耐久年齢はとうにすぎて役目は全うしたのに
なおも人の手から手へと移動し続けて
本来以上の効能を発揮する骨董価値。

身近においておくだけで心が豊かになる。
製作者はどういう人でどんな方々が使用してきたのか。
各々のオブジェごとに物語を秘めている。
新品では決して味わえない歴史の重み。

あちこちのキズや傷みは時間を経た勲章。
貨幣であれば不良品や印刷ミスなどの稀少性。
古ければ古いほどルーツに迫れる。

「高価なのでアンティークには手が出ないけど」
「店のひとと立ち話をして冷やかすのはスキ」
「京都の骨董市だと」
弘法大師ゆかりの東寺で開かれるものね」
「外国人は着物の生地にぞっこん」

古いものを尊ぶ文化。

京都だとどこもかしこもレトロだらけで日常が
古物に囲まれてるからわりに鈍感というと失礼だけど
一般のひとはありがたみを覚えないんじゃないかなあ。

せっかく大覚寺まで来たから写経体験するべし。
墨をすって半紙に般若心経をしたためる。
いい京都みやげになるとおもうんだ。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」
「あたしはね。暗誦できるよ」
玄奘三蔵の訳した漢文とサンスクリット
「世界で一番美しい詩」
「ほれぼれする音韻なの」

そうだった。すっかり失念。君は。
般若心経を実感して理解したとき、すなわち悟りだと言い切った。
ただ、あくまで入り口にすぎない。
大事なのはネクストステップだって強調してた。
ものの見方がキーワード。
日本人にとって宗派を超えた聖書であり続けている。
しかし、二百数十文字と短いわりに意味までたどりつきにくい。

お釈迦さまが弟子のシャーリプトラに語りかける形式。
ものの見方の目覚めをうながす。
ものの見方とはなにか。
ものの見方に目覚めた状態。
ものの見方に目覚めた者は、ブッダと呼ばれる。

ブッダなんておそれおおいから現代ならばさしずめ
「電気ピカソ」と呼んだほうがしっくりくる。

お。ポツポツ時雨。
どこかで熱い甘酒でもすすろうか。

 

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

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