守破離::1Q59

幸福とはココロの状態にある

花鳥風月に心をうばわれる

こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか。

季節のめぐりに気持ちが追いつかなうちに中秋を迎えました。
庭にはケイトウホトトギスがしっかり自己主張。

アブなどの小さい昆虫がやってくるのを狙ってか
アキアカネがよく目につくけれど、このへんには
水辺がないからどこか遠くから飛来したんだろう。

トンボって鮭みたいに生まれた川をおぼえてないから
水たまりでもあれば、適当にタマゴをうみつける。

ケイトウの夏期はながくてひと月以上は楽しめる。
まえの古い家でも父が育てるというか
丈夫な花なので勝手に繁殖して手間いらずなので
お彼岸になると墓前と仏壇にそなえていた。

仏壇からはいつのまにやら黒いケシ粒程度の種が
こぼれおちる。実をつける力が強いので
墓ではこぼれた種からケイトウが芽吹いて
ちょっとした花壇っぽくなって風情があった。

西洋の花やあれこれ品種改良された種類の花より
昔からなじみのどこにでもありふれた和花が好み。

両親が健在だったころは和花でなくとも花であれば
どれも固有の美しさを競っているのでこだわりめいた
ものはなかったのに、両親ともに他界したあとは
ますます和の花にひかれるようになった。

おかしなものですね。

ズボラな父でしたが花を店から買うことは春彼岸ぐらいで
自宅で栽培した花があれば、それだけで充分でした。

自家製の花を見慣れて育ったせいで
和の花にノスタルジーを求めてしまうのかもしれません。
食べ物だって洋風のものと和風のものを比較すれば
和風料理は毎日たべても飽きることはない。

外国に移住して、外国人と結婚した方がわかれる理由の
ひとつに食べ物のちがいが大きいといいますが
年齢があがるほどカラダが和の風味を欲しがる。

いくらあたまで環境にあわせてみてもカラダは正直。

それでも、子供の時分から西洋的な生活であれば
和風への感受性などとは無縁なのでしょうね。

過去をふりかえってノスタルジーにひたるのを
よしとしないのは理解できないこともないのですが、

私の場合は、大いにノスタルジックになるべきだと
かんがえている。文化というのはレトロなものを
大事に残すことにあるのだから、郷愁をしぼりだして
わすれないように再生してやるのが、
義務というか筋ではないでしょうか。

それらをないがしろにするから、なにが大切かという
基本すらどこかへ消えてしまう。果てはお年寄りを現代の
姥捨山ともいえる施設に隔離しても平気でいられる。

それぞれの家庭によりやむにやまれぬ事情をかかえてるから
一概に姥捨山が悪だとはきめつけるのはなんですが、
収容される立場からすればわりきれないものがあろう。

犠牲になるのはいつだって弱者。

ドイツあたりの黒魔術とかオカルト方面を渉猟して
日本に紹介した澁澤龍彦さんでさえ、晩年は
すっかり角がとれて野に咲く草花に遊んだっけ。

ひとって当たり前だけど齢いとともに変化。
ひとつの人格にこだわってありのままだといいだすのは
若気のうちだけの通過儀礼みたいなもの。

江戸の画聖であった葛飾北斎に俳聖であった松尾芭蕉
最後にあらわした辞世の句。
ふたりともユニークさにおいては傑出した異才で
ことあるごとにどういう人物であったのか
想像してニヤニヤしてみる。

北斎の描いた浮世絵をながめながら芭蕉のショートポエムに
しみじみ感じ入ってみれば、
大きな争いごとのすくなかった江戸の町はどれほど
住みやすかったことか。

あの世に着いたら人魂となりて夏の野原で
遊びほうけたいという葛飾北斎殿。

点灯するホタルに生まれ変わりたい願望のあらわれ
なんでしょうかね。そして気の小さい人間を脅かしてやりたい。
茶目っ気ユーモア満載であの世に行きっきりよりも
ときには現世に帰ってきたい心のこりがみられる。

盆や彼岸の習俗はいまの時代とは比較にならない。

当時のひとびとはほんとうにご先祖さまが人魂の
姿に変わりて来臨すると信じていたにちがいない。

松尾芭蕉殿といえば、旅は治るみこみのない病いだから
あの世では枯れて荒れ果てた野原を走りまわりたいという。

信念という以上に念力まで加わる。

ふたりともすでに現世の平凡な執着は立ちきったようだが
そうでもなくてもっと精進してもっといいものを
目指したいすさまじい迫力をかんじとれる。

人生と描くこと書くことはイコールと化している。
あれほどの大家でさえ作品には不満足だから現世に未練がある。
遊びをきわめたい一心不乱は芸術家のほんらいあるべき姿。

何百年さきまでも知名度をたもち続けた二人。

完全燃焼したかの様相とはうらはらだった。

和のいしずえって何だろう!?。
日本文化とは一体どこらへんにあるんだろう!?。

私のテーマなので旧きよき日本におけるカルチャーを
私なりにさぐってきた。あいまいなれど知れば知るほどに
仏教、それも禅との関連がふかいことに気づく。

般若心経は世界で一番すばらしいポエムであり
短い字数にこめられた深遠なる哲学。

菩提寺道元による禅の曹洞宗だが、私自身は無宗派
奈良仏教でも密教系でも浄土系でも法華経系でも神道系でも
カトリックでもプロテスタントでもぜんぶ尊敬している。

しかしというかやはり砂漠で生まれた一神教より
マイルドな多神教の価値観にひかれる。

ホトトギスの花って雑草レベルでちっちゃいからめだたないが
花名が可愛らしい。夏の野鳥であるテッペンカケタカと
鳴くホトトギスをこの目でたしかめたことはないが
かのこ模様というんですかね。

模様が似てるから名付けられたとおもう。

落語で隣りの家から七輪で焼いたサンマの匂いを
ごはんのおかずにするみたいにホトトギス
ネーミングされてなかったら見捨てられそうな
ほどにジミ〜な花。

でも、野辺のどこにでもある可憐な野菊やアザミだって
地味なのであらためて摘んできたり観察したり
するひとはまれだとおもうけど、脇役としてしっかり
根っこを張って存在してる。

見てるひとはみてるんだよねえ。

こんなに広い世界で出会ったのは、ご縁による導き。

挨拶程度の一言でいいから小さな命に声をかけよう。
それだけで、あなたに豊かなこころが芽生えます。

「ありがとう」
「きれいだね」
「愛してるよ」